「仏常花蓮」のいわれコレってためになる話… 5.30
2021年5月30日
「仏常花蓮」のいわれコレってためになる話…
未敷蓮華合掌(みふれんげがっしょう)『手を合わせるたびに、仏教における蓮の捉え方を思い出す=どんなに汚れた環境にいても、それに染まることなく、清く正しく生きる』仏教での合掌には12種類あり、その中に蓮のつぼみの形の合掌がある。普段行う合掌はてのひらも指の先もぴったりとくっつける。未敷蓮華合掌(みふれんげがっしょう)では手の指先はくっつけたまま、てのひらのところをほんの少し離し手で形を作ってみると、横から見たときのふっくらとした形が、蓮のつぼみにそっくりだからこの名前になった。「蓮は泥より出でて泥に染まらず」蓮の花は仏像の台座にあしらわれていたり、お寺の仏像の前には金色の大きな蓮の花が置いてあったりしている。生まれたばかりのお釈迦さまが歩き出して「天上天下天上天下唯我独尊」と第一声を上げた時に蓮の花の上に立っていたという。仏教において、蓮の花は神聖なお花。「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉があり 池の中に咲く蓮は、泥水の中。綺麗なお水ではない。泥水の中に根っこを張って花を開く日をじーっと待つ。やがてその時が来ると、茎は空に向かってすっくと伸び、花を咲かせる。ずっと泥の中にいたとは思えない、けがれのない、うつくしい花。この蓮の様子を、仏教では人の生き方のお手本としている。
蓮華の五徳
1.淤泥不染の徳(おでいふぜんのとく)
泥より華を出すけれど、蓮の華は泥に染まらず浄く咲く。
2.一茎一花の徳(いっけいいっかのとく)
一つの茎に一つの華をつける。
3.花果同時の徳(かかどうじのとく)
花が散って実をつけるのではなく、華と同時に実をつける
4.一花多果の徳(いっかたかのとく)
一つの花から多くの種がとれる。
5.中虚外直の徳(ちゅうこげちょくのとく)蓮の種は腐らず、年月が経っても条件が合えば芽を出す。
仏教極楽の絵には、蓮の花が描かれている。阿弥陀経(あみだきょう)に説かれており「池の中に蓮華あり、大きさ車輪の如し(阿弥陀経)」極楽には蓮の華が咲いていると説かれており仏様の像を見ると、蓮の台(うてな)に立っておられる。蓮の花が、極楽へ生まれられる人の心の特徴を表している。「蓮華の五徳(れんげのごとく)」極楽へ生まれられる人の心を、正しい信心という。正しい信心を教えられているのが親鸞聖人の書かれた「正信偈(しょうしんげ)」正信偈とは、正しい信心の偈(うた)ということで、正しい信心を教えられている。生きている時に正しい信心を獲た人は、極楽へ生まれられるので、極楽には蓮の花が咲いていて、極楽に生まれる人は蓮の台に忽然と生まれると説かれている。正しい信心とは何か。親鸞聖人は正信偈に詳しく教えられている。
「 正信偈(しょうしんげ)」
仏教でよく蓮の花が出てくるのは、阿弥陀経に極楽には蓮の花が咲いていると説かれる。生きているときに正しい信心を得た人は、極楽の蓮台に忽然と生まれると説蓮の不思議な魅力 いわれ
蓮の花
清らかさや聖性の象徴として称えられることの多い花。泥中の蓮でご存知の方も多い。蓮は泥より出でて泥に染まらず」と言う馴染み深い言葉。蓮の花は汚い泥でも、清らかな花を咲かせることから、決して自分を見失わない悟りを求める人の例えに用いら清らかで穢れの無い強さの象徴。蓮の花奥の深いところ不思議な魅力を放つハスの花の神秘を感じる話
清らかな心
泥が俗世間の苦難や苦境
悲しいこと苦しいこと、辛いことの中にあって、自らを見失わず成長した人に悟りは開ける
蓮の花は神聖
さらに仏教国チベットでは、死後は極楽浄土で生まれ変わるとされ、その際には同じ蓮の花の上にその身を託すこの言葉が語源となった四字熟語が「一蓮托生」
「神聖」と言う言葉は、お釈迦様の第一声「天上天下優雅独尊」から誕生
雄弁
雄弁とは「意味や解説で説得力をもって力強く話すこと。また、その様。」を表す言葉ですが、この花言葉の由来は、エジプトのオシリス王に関係して生まれた蓮の花。ツタンカーメン王の墓にも装飾として使われ、エジプトでも神聖な花。オシリス王に捧げられた花として広く知られている。オシリス王はとても雄弁な王様だった。
沈着
「沈着」と言うと「冷静沈着」の四文字熟語で親しまれる言葉。物事に動じない君子を表している。古代中国では、蓮は俗人に染まらない君子の花とされたため、「沈着」と言われている。「救ってください」と言われると、私を苦しみから救ってと言う意味にとらえがちですが、これは、仏の考え方から生まれた。
蓮の花の由来
・泥と言う俗世間にまみれない「清らかな心」
・極楽浄土で身を託す花「神聖」
・オリシス王の魅力になぞらえた「雄弁」
・泥の中で泥に染まらない「沈着」さ
・ハスの花の散りゆく姿から「離れ行く愛」
・時間を守って花開く様子から「休養」
・仏教の教えに由来した「救ってください」
雄弁とは「説得力のあり力強く話すこと」という意味。
雄弁という言葉の意味には「弁が立つ」という意味も含まれている。極楽浄土へ往生した際に生まれる場所が蓮の花とされているという意味からか「神聖」という意味もある。「清らかな心」蓮には清らかなイメージが持たれている「維摩経(ゆいまきょう)」には、譬如高原陸地不生蓮華。卑濕淤泥乃生此華。(意味は「高原の陸地には蓮花は生えない。汚泥の中からこそ蓮花は咲く。」)泥の中から咲く蓮の花は、泥の中にありながら清く美しく咲く、ということ。「清らかな心」「神聖」という意味。蓮の花は「雄弁」だが、仏教、特に禅・禅語では「蓮の花で雄弁とはこれいかに」と言われている。有名な言葉に「雄弁は銀、沈黙は金」この言葉を連想する禅語とまつわる話がありる。
拈華微笑(ねんげみしょう)
お釈迦様が霊鷲山というところで説法中、蓮の花をつまんで高くかざした。そうすると、説法を聞きに来ていた衆生は、なんのこっちゃという感じで沈黙しており、そんな中、摩訶迦葉(まかかしょう)というお弟子さんだけが、只一人にっこり微笑んだ。そこで、「不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」とお釈迦様が仰り、仏法を摩訶迦葉に伝承した。この「拈華微笑」の話には「正法眼蔵」「不立文字、教外別伝」「実相無相」といった仏教の言葉も出ており、仏教用語・禅語も複数同時に学べる話。「拈華微笑」は、文字や言葉と言った言語では伝えきれない事や、以心伝心を伝え教えている禅語。蓮の花が登場するこの禅語の話から、蓮の花の意味が「雄弁」とはこれいかに、と思うこともあり、一言も発さず、蓮の花をかかげて、それに対して微笑んで、以心伝心がなされたという話。「沈黙は時に雄弁よりも伝わる」というのが、蓮の花言葉である「雄弁」の意味。「維摩経」では、「維摩の一黙、雷の如し」という言葉もあり、沈黙で語るという話も出てくる。「微笑みが雄弁に語っている、ゆえに沈黙は時として雄弁である」という捉え方や解釈も出来る。蓮の花言葉「雄弁」の意味とその解釈はお仏壇に「枯れない花」「永遠に咲き続ける花」を意味する常花を飾っておくと、お仏壇の品格が上がる。
常花とは常花の歴史。鎌倉時代(木製 昭和になりプラッチック製品に金箔を張る。常花とは本尊、位牌に供える造花で花供養具の一種。仏教界において最上の花とされる蓮華の花を象っており、茎は3本や5本など奇数の本数とされている。お仏壇に生花だけでなく常花を飾っておくと、お仏壇の品格が上がるともいわれている。常花に使用される花は「蓮(ハス)」という花。仏教では泥水の中から美しい花を咲かせる蓮の姿が仏の慈悲の象徴。如来像の台座には蓮華を模した「蓮華座」があり、寺院では仏前に常花が置かれた。常花は天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・日蓮宗などで使用。常花よりも生花を供えるほうがよいという考えの菩提寺や地域の習わしもある。
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